フォーリンラブ - Satsuki Side - : page 01

 朝日がキラキラしている。夏の朝は早く、4時頃には明るくなり始め、5時には眩しい空が頭上に広がっている。暗い店のなかにずっといた目にその光が突き 刺さるようだ。目の奥がズキズキ痛い。
 忘れ物はないな、と確認して店を出た。急がなきゃ。azzurroはAndyより営業時間が1時間長いけど、今日はちょっと片付けに手間取ってしまっ た。下手したら間に合わなくなってしまう。
 手にした黒い携帯電話を握りなおし、少し小走りでazzurroに向かった。
 相良くん、か。ちょっと不思議な男の子。口数は多くはないけど、穏やかな話し方をする。ゆっくり言葉を選びながら話す、ちょっと低めの声が心地いい。
 昨日はちょっと飲みすぎたと思う。でも、なんだか楽しくて止まらなかった。あんなに楽しく、美味しくお酒を飲んだのは久しぶりかもしれない。結城さんの 誕生日ということもあったし、結城も酔っていたが、私も相良くんも大分酔っていた。
「電話、忘れてるよ」
 そう手渡そうとしたら相良くんの答えはあまりにも意外なものでびっくりした。
「持ってて」
「え?」
 スタスタと歩き始める後ろ姿を追った。ポケットに入れようと試みたが、歩いている人のポケットに何かを入れるという作業は思いのほか難しい。
「いいから。預かってて」
 いや、全然意味がわからないんですけど。
「じゃ、俺こっちだから」
 もう目の前に地下鉄への入り口が迫っていた。
「またね」
 そう言って、私の頭をわしわしっと撫でて階段を降りて行った。なんでだか、撫でられた余韻がいつまでも残っていた。
 相良くん、昨日のことちゃんと覚えてるのかなあ。けっこう酔ってたみたいだし、帰りの行動も意味不明だったし……でも、人の携帯電話が手元にあるって落 ち着かない気分だ。メールか電話かはわからないが、何度か着信があったようだし。
 もし本人が、電話が手元にないことに気がついて、なくしたと思ってどこからか電話をいれてるのでは?と思ったりもしたが、とりあえず今日渡せば大丈夫か なと思ってそのままにした。まさか、昨日の今日で買い替えてたりはしないだろう、と思って。
 急ぎ足で着いたazzurroは看板が消えていた。店のなかに人の気配もなく、もちろんドアも開かない。
 どうしよう。今日は早く閉めちゃったんだ。携帯電話を手にしたまま途方にくれてしまった。そして、ふと一つの可能性に気がついた。エルヒターノに忘れた と思って、そっちに行ってるかも。
 来た道を戻り、エルヒターノへ向かいながら、自分の携帯電話から店主の結城へ電話を入れる。
「あ、結城さん?お疲れ様です、清瀬です」
『ああ、紗月ちゃん。昨日はありがとうねー』
「いえいえ、こちらこそごちそうさまでした。ところで、今日相良くんそちらへ行ってますか?」
『いや。あいつが2日連続で来たことはないなあ。どうしたの?』
「あ、ならいいんです。もし行ったら、預かってるものあるから待つように言ってください」
『ん?いいけど、そう言えばわかる?』
「……たぶん」
『なんだ、それ』
「あっ。今相良くんみつけました。また今度ゆっくりお邪魔します!」
『え?ああ、わかった。またね』
「お疲れ様です、失礼します」
 電話を切って、はるか前方にいる相良目掛けて走り出す。
「相良くんっ!」
 振り返った相良の顔が驚いている。
「清瀬さん……」
「よかった、会えて。昨日、ちゃんと帰れた?」
「あ、いやー。帰ったは帰ったけど。ごめん、俺あんまり覚えてなくて。あ、金払った?」
「やっぱり覚えてないんだ。お金はちゃんと払ってたよ」
 ということは、帰りのやり取りも覚えてないだろうな。
「あ」
「これ預かっててって。昨日忘れてるよって渡そうとしたんだけど……」
 手の中の携帯電話を見せた。
「預かってろって言うし、ポッケに入れようかなって頑張ったんだけど、うまく入れられなくて」
「……ごめん」
「いーえー。なんでそうなったのか私もよく分からないんだけど。朝持ってこようかと思ってたんだけど、ちょっと時間なくて。今日ラストまでって言ってたか ら間に合うかと思ったんだけど、お店もう閉まってたから」
 走って上がった息を整えようと深く息を吐く。
「走ったの?」
「うん、ちょうど後ろ姿が見えたから。歩くのはやいねー」
「ごめん、ありがとう」
「ううん、追いついてよかったー」
 手渡せたことに一安心した。
「今日は帰るの?」
 この後どうするつもりだったのか気になって聞いてしまった。
「え?」
「まっすぐ帰るの?」
「あ、ああ。エルヒターノに忘れたのかもって思って行くかどうかちょっと迷ってたんだけど」
「そっか、やっぱりそう思うよね。迷ってたって割には歩くの早かったね」
 あのままエルヒターノに向かってても会えたのか。
「まあ、もう向かってたようなもんだね」
「やっぱりー」
「清瀬さんは?」
「私?もしかしたらエルヒターノに行けばいるかなって思って、ここで追いつけなかったら行ってた」
「そうか。で?」
 はにかんだような笑顔にちょっとときめいた。
「んー。相良くんに会えたし。どうしようかな。相良くんは?」
 また一緒に飲みたいな……
「ね、この時間エルヒターノ以外でどっかある?」
 5時を過ぎてから飲める場所はけっこう限られてしまう。エルヒターノくらいしか私には思い浮かばない。
「1394、知ってる?」
「……名前だけは。3丁目の方よね?」
 そう、名前だけ。
「そう。あそこなら8時までやってる」
 一条横町の3丁目9−4だから1394って聞いたことがある。行ったことがなくても住所がわかるというなんとも便利な名前だ。
「よし、じゃあ、そこ」
 ちょっと強引かなと思いつつ、でもエルヒターノに行くつもりだったなら、二日酔いもないかな、と誘ってみた。
「ま、いいか」
 朝日に眩しそうに目を細め、笑顔を見せた相楽くんがキラキラして見えた。
 隣を並んで歩く相楽くんを盗み見する。真横を見るとちょうど肩の辺りが目に入る。私がけっこうチビだから、背は特別高い方ではないんだろうけど、なんか すごく大きく感じる。なんでだろう。
「なに?」
「あ、いや。相良くんて実際の身長より大きく見られたりする?」
「ああ、けっこうそうかも」
 ふふん、と見おろして笑われた。なに、今の。思わずむっとしたような顔をしてしまう。
「実際は172、3cmだけど、それよりは大きく見られることが多いよ、おチビさん」
「なにそれー。私だってそんなに小さくないもんっ」
 あ、また。小馬鹿にしたような顔で笑うんだけど、なんか。目がすっごくやさしい。
「はいはい、おちびさん前見てね。電柱にぶつかりますよ」
 促され前を見やれば、本当に電柱が目の前。酔ってもいないのに、気が付こうよ、私。そっと背中に添えられた手にドキッとした。
「今日は何回店の中でつまずいたの?」
「え?」
「Andyでけっこう躓いてたじゃない。どんだけあの店で働いてるんですか」
「ああ、バレてたんだ。だって、カウンターの中タイル敷きなんだよ。タイルの目地で躓くのですよ」
「はい?」
 呆れたような視線が降り注がれる。その後爆笑された。相良君が爆笑って初めて見たかも。どちらかといえばポーカーフェイスな相良くんは、あまり声をたて て笑うようなことはない。
「そんなに笑わなくたって……」
 膨れた頬を軽くつねられた。
「や、ほっぺ伸びるー」
 そういってつねられた頬を抑えたけど、なんだか顔が熱い。そんな私の様子を見ながら、相良くんは声を殺して笑っている。なんだか、ドキドキが止まらな い。
 1394までの道がもっと長ければいいのに、そんなことをふと思った。
 一条横町は白金市の中心部で繁華街であり、夜の街だが、そんなに範囲は広くない。Andyやatticがある1丁目、azzurroがある2丁目、エル ヒターノや1394がある3丁目が目抜き通りの一条横町通りの南側にあり、北側に4丁目から6丁目が並んでいる。1丁目と3丁目なら、1丁目と4丁目のほ うが近いため、私はあまり3丁目や6丁目の方を知らない。
 あたりをキョロキョロしながら歩いていたら、突然わしっと頭をつかまれた。
「な、なに?」
「あんまりよそ見してると躓くよ」
 見上げると、相良くんがにやっと笑った。足元を見れば、小さな段差。
「これくらいで躓かないもん」
 不貞腐れて言う私を見て、不敵な笑みを浮かべる。
「これくらいで躓かないなら、タイルの目地でなんてつまずかないと思いますが」
「……たしかにそうですね」
「ま、躓くのも転ぶのも俺じゃないからいいけどね」
「うわ、それひどい。私だって好きこのんで転ぶわけじゃない」
「そりゃ、そうか。あ、こっち」
 3丁目の連鎖街の中へ入っていく。看板が一つだけ外に出ていた。
「お疲れ様です」
 引き戸を引き、相良くんが中へ挨拶する。その後ろから覗きこむようにみを乗り出して見た。
 L字型のカウンターは8席くらい、かな。磨き込まれて黒く鈍い光沢をもつ木のカウンターが味を出していた。
「ほら」
 振り返ると私を先を譲る。なんか、女の子扱いみたい。ついそれをそのまま口にしてしまう。
「女の子扱いみたい」
「いや、女の子でしょ」
 まただ。薄く笑われた。小馬鹿にしたようなシニカルな笑い方なんだけど、目が優しい。
「おっ、慶人が女連れなんて珍しいこともあるな」
 カウンターの中からそう声をかけられ、慶人くんを見やる。
「かもしれないですね」
 スツールに腰掛けながら、澄ました顔で答えてる。その隣に並んで腰を下ろし、やり取りを反芻した。
 ここに女性と来ることはなかったんだ……私、来ちゃって大丈夫だったのかな。
「ん?」
 視線にきがついたのか、こちらを見た相良くんが小さく頷いた。
「大丈夫だよ。嫌ならつれてこないから」
「!!」
 なんでわかったの、そう聞く前に小さく笑われた。
「清瀬は顔に出るからな」
「あれ?清瀬さんって言うの?」
 唐突にカウンターの中から声をかけられた。
「はい、そうです」
「Andy?」
「え、あ、はい。Andyで働いてます」
「そうか、そうか」
 無精髭を撫でながらその人はうなずいた。
「あ、さっきまでね紺野君がいたんだよ」
「紺野君って、紺野博史さんですか?」
「そうそう、それでAndyに入った女の子がかわいいって聞いてたから」
 意味あり気に笑われ、ちょっと気不味くなった。
「お客さん?」
「ん」
 相良くんからの問いに小さく頷いて答える。
「ジョージさん俺、ビールください。清瀬は?」
 唐突に話を区切られて、びくっとした。
「あ、私も。ビールを」
「あいよ」
 軽い返事をひとつよこし、ジョージさんと呼ばれたその無精髭の人がビアグラスを二つ用意し、サーバーから注ぎ始める。
 よその店の手順は見ていて楽しい。複数のビールを注ぐときは大抵、ビールだけすべてのグラスに注いだ後に泡を注ぐが、複数であっても、二つ三つの時の手 順はけっこうそれぞれ違う。
 ジョージさんは二つともにビールを8分目まで注いだ後、浮かんでいる粗い泡を取り除き、その後に泡を足した。
 あ、私とやり方同じだ。
「初めて来る店は楽しい?」
 また顔に出てたのかしら。
「うんっ。みんなやり方がそれぞれあるから、見てて興味深い」
「ジョージさんのビールは清瀬と同じだな」
 あ、気付いてたんだ。なんか、嬉しい。
「相楽くんは泡注ぎこぼすもんね」
「ああ、俺、飲食はazzurroが初めてなんだよね。だから、小林さん流しかしらない」
「そうだったんだ。でも、確かにazzurroの人はみんな同じやり方かも。でも、あのやり方だとカウンターの中汚れそう……グラスも出す前に拭かなきゃ ならないし」
「確かにね。もう慣れちゃったからあんまり考えてなかったけど。でも、数がある時はあっちのほうが早いかも。一個一個泡取る方が時間かかるような気がす る」
「……そうね。azzurroくらいの箱だったら、そのほうがいいのかも。うちだと、サーバーの受け皿も小さいから、あのやり方やってたら、受け皿に貯ま るのも早いから逆に手間になっちゃうけど」
「ああ、受け皿ね。うちは受け皿じゃなくて、そのまま下に流れるから」
「そうなの?いいな、それ」
「100席以上ある店と、20席位の店と、カウンターの中の作りも違うだろうからね」
「そうだよねー」
 話している間に出されたビールを手にし、そっと合わせて乾杯した。
「お疲れ様」
「お疲れ様です、もう今日は携帯忘れちゃダメですよ」
 相良くんが苦笑いした。その様子を見ていたジョージさんがニヤニヤしている。
「なあに、相良くん。俺まだちゃんと紹介されてないんだけど、君たちそうなの?」
「何言ってるんですか、ジョージさん。もう清瀬のこと噂話で知ってるんでしょう」
「いや、それとこれは違うでしょ。うわさ話なんてあてにならないし、せっかく本人が目の前にいるんだから」
 ねえ、と同意を求められても困る。だいたい、どんな噂をされていたのやら……少し気が重い。
「ま、聞いてた噂通り、可愛いお嬢さんでおじさんは嬉しいけど」
 やっぱりなんか裏がありそうな顔で微笑まれて困ってしまい、相良くんに視線を送る。
「おじさんって、ジョージさんまだ32才でしょう」
 呆れたように笑う相良くんを横に私は話の方向が変わったことにほっとしていた。

<< | >>


inserted by FC2 system