雨、時々キス - Keito Side - : page 05

 入り口を通りぬけ、店の奥に座る清瀬に目を向ける。外はすっかり明るくなっている時間だが、この店は窓がないせいか、日が登っても明るさを感じることはなく、夜の世界から抜け出ることはない。おかげでいつも時間の感覚がなくなり帰るタイミングを失うことになる。
「清瀬、今日はそろそろ帰るか?それとも最後何か飲むか?」
 どう声を掛けようか迷ったが、普段どおりの雰囲気になるよう努めてみた。
「あ……、そういえばまだ一杯しか飲んでなかった……」
 申し訳なさそうな言い方に苦笑が漏れる。確かに、結城さんが気をきかせて貸切営業にしてくれたにも関わらず、俺達はみな最初に頼んだ一杯しか飲んでいなかった。
「じゃあ、もう一杯ずつ飲んで帰るか」
「ん……」
 弱々しい返事に、これはちょっとキツメの酒を飲んで酔ったほうがいいのではないかと思う。
「エライジャでも飲むか?」
「……ん、そうだね」
 俺の意図を察したのか、小さく笑った。結城さんにエライジャ・クレイグをストレートで二つ頼むと、結城さんは苦笑いをこぼしながら、普段より多めにそのバーボンをグラスに注いだ。
「ほらよ、さくっと飲んで、今日はゆっくり休め」
「ありがとうございます」
 清瀬からも笑みが漏れた。まだこういうやりとりに小さくでも笑えることに少しホッとする。
「でも、どうしたらいいかな……?」
 言い難そうに清瀬が口にした。
「あの、紺野さんのメールへのお返事」
「……放っておいていいんじゃない?」
 俺はそう言ってしまったけど。
「んー、紗月ちゃん。それちょっと待ってて。確認したいことがあるから。特に誰からも連絡入る予定ないなら電源切っちゃっててもいいし」
 篠森さんがそう言うと、清瀬は躊躇いがちにも頷いた。
「それと、今日は慶人に送ってもらって。これは命令」
 ニッと篠森さんが笑う。困ったような表情で俺を見る清瀬の頭にまた手が伸びた。このサラリとした髪の感触はクセになる。そっと触れると、また安心したような顔を見せる。思わず頬を撫でてしまった。
「じゃ、そろそろ出るか」
 そのまま引き寄せたい衝動を無理やり抑え、清瀬を促す。
「ん。あの篠森さん、緑川さん、今日はありがとうございました。松田さんと結城さんもいろいろすみません」
「紗月ちゃん、私たちにできることがあればいつでも力になるから。遠慮される方が寂しいわ」
 緑川さんが微笑む。
「清瀬、とりあえず明日と明後日は休め。体調不良ってことにしておくから。平日は別に俺一人でもなんとでもなる。今後のことはまたゆっくり考えよう。
 松田さんからの言葉に清瀬が申し訳なさそうに頷く。
「じゃ、紗月ちゃんのこと頼むな」
 篠原さんに俺も頷いた。
 店を出ると、紺野のメールにあった通り雨が降り始めていた。それでも傘を必要とするほどでもなく、そのままHOTEL SYCAMOREを目指して歩く。
「……どこに行くの?」
「HOTEL SYCAMORE」
「え?なんで?」
「篠森さんって、HOTEL SYCAMOREの息子らしいよ」
「……え?」
「俺もさっき知ったんだけど。で、今日は部屋用意してくれたみたいで、そこに泊まってって」
「なんで、そんな……」
「不安にさせたいわけじゃないんだけど……篠森さんが人使って確認したらしい。二条町のアパートの前で紺野らしき人がずっと立ってるって」
 俺の言葉に清瀬が絶句する。こんなこと言いたくなかった。でも、ここまで言わないと清瀬がそのまま自分のアパートに帰ると言いそうで。それは俺もさせたくなかった。
「こんな機会じゃないとHOTEL SYCAMOREなんてそうそう泊まれないし、いいじゃん」
 軽い口調で言ってみた。
「何かしてあげたいって、篠森さんの兄心みたいなもんだと思うから、遠慮するなよ」
 まだ腑に落ちない様な表情を浮かべる清瀬だったが、それでも何も言わずに頷いた。
 HOTEL SYCAMOREまであと5分ほどというところで、突如雨脚が強まった。遠くで雷の音が聞こえ始める。ばたばたとアスファルトをたたき始める雨に自然と駆け足になる。
「急げ、着くまでにずぶ濡れになるぞ」
 清瀬の手を引く。俺よりもずっと小さな手が握り返してくれた。
 HOTEL SYCAMOREのエントランスに駆け込む頃には雨はバケツをひっくり返したようなという表現が当てはまるほどの勢いで、その中を走った俺達は結局全身ずぶ濡れで、すっかり水分を含んだ服が重い。
「この服装で入るのは躊躇うね……」
 苦笑を漏らす清瀬につられ、俺も苦笑いを浮かべる。
「……確かにな。でもしょうがない、行くぞ」
「恥ずかしいなあ……」
 それは俺のセリフだ。気づかない振りをしてはいるけど、雨を含んだ清瀬の白いTシャツが肌に張り付いて下着まで透かしている。誰にもそんな姿を見せたくなかった。
 入るのを嫌がる清瀬の背中を押し、ロビーへと向かう。
「あの、篠森さんにお願いしていた者なのですが……」
 フロントでそう言うと、係の男が少し驚いたような顔をしたが、すぐに笑顔を作った。
「相良様と清瀬様でいらっしゃいますね。お話は伺っております。すぐにお部屋までご案内いたします」
 慇懃にそう言うと、そばで控えていた男に「伊吹様のお部屋へご案内をお願いします」と告げ、カードキーを手渡した。
「それでは、ごゆっくりお過ごしください」
 丁寧に頭を下げる男とずぶ濡れの俺達のあまりの差が居心地悪い。清瀬も同じように思っているらしく、曖昧に笑っていた。
 音もなく動き始めたエレベーターがチンと控えめなベルの音をたて32階で停止する。案内された部屋は一見してこれがスイートルームってやつかと理解するほど立派で、やはり俺達にはそぐわない。
 俺たちを部屋に案内した男は一通り部屋の設備等を説明すると、慇懃に頭を下げたが、その目には明らかな興味の色が浮かんでいる。
 清瀬が手持ち無沙汰に部屋の隅で立ち尽くしている。
「お前、まずシャワー浴びてこい。風邪ひくぞ」
 部屋の中は適度に冷房がついているらしく、雨に濡れた体にその空気は冷たかった。
「でも……」
 清瀬の視線が不安に揺れる。俺がいたらそれもやりにくいか。
「じゃ俺もう行くから」
「え!?」
 窓の外が突然光る。少しの間をおいて、雷鳴が轟き渡った。
「雷……せめて雨やむまで……」
 一人になるのも心細いか?
「わかった。でもここけっこう冷房効いてるし、体冷えるぞ。風呂入ってこいよ」
 俺がその濡れた服装の清瀬を見ていたくなかった。
「ほら、風呂こっちって言ってたから……」
 突立たままでいる清瀬を促す。さっき説明されたやたらと立派な風呂の方へ清瀬を引っ張っていく。なんだか変な気分になる。明らかに調度品とかの質がまるで違うというのに、そういうホテルにいると勘違いしそうになった。
 風呂のドアを開けて、そこに清瀬を押し込んだ。
「あのっ、相良くん」
「ん?」
「……帰らないでね?待っててね?」
「わかったから。ちゃんと待ってるから、早く風呂入っておいで」
「うん……」
 まだ不安そうな清瀬の頭を撫でる。いつものような乱暴な撫で方ではなく、ゆっくりと髪に手を沿わすように。やっと安心したような笑顔を見た。
「ほら」
「うん……あ、待って」
 奥へ進もうとした体が止まった。
「相良くんも濡れちゃってるし」
 そう言ってタオルを寄越す。一枚しか備え付けがないということもないだろうと思い、それはそのまま受け取った。
 部屋の中央にあるソファへ腰をおろす。と同時に携帯が震える。篠森さんからだった。
『もう着いたか?』
「はい、あまりの立派さに戸惑ってますけど」
 俺の言葉に篠森さんが笑う。
『ああ、なんかな。無駄に立派に見せてるから。備え付けの酒はいくら飲んでもいいから』
 その言葉に今度は俺が笑う。
『紗月ちゃん、ちょっと飲ませてゆっくり寝かせろよ。その部屋チェックアウトとか関係ないから。あとまた夕方あたりに連絡する』
「わかりました」
 そう言って電話を切ると、知らずに溜め息が漏れた。
 篠森さんってぼんぼんだったんだな……なんかわかる気がする。余裕があるっていうか、鷹揚に構えてるっていうか。年齢なんて俺とたいして変わらないのに。俺とはまるで違うな……
 育った環境の違いというのも大きいだろう。家の裕福さを羨んだところでそんなのはどうしようもない。そう思い直して、電話での会話を思い出す。
 何飲んでもいいって言ってたな……とりあえずなんか飲むか。
 果たして使われたことがあるのだろうかと疑問が浮かぶような、手入れの行き届いたきれいなカウンターキッチンにはいくつかウィスキーが並んでいた。
 オールド・クロウにイエロー・ローズ・オブ・テキサス、オールド・エズラ15年にエライジャ・クレイグ。俺と清瀬が好むラインナップはそれぞれ開封済みで、冷蔵庫には炭酸まで入っている。
 もしかしたらSkyscraperから持ってきたのか?ホテルのスイートなんて泊まったことはないけど、常備する酒としてはちょっとマニアックにすぎるし、第一バーボンしかないのも不自然だ。
 いくつか並ぶグラスから大ぶりのロックグラスを選び、氷を適当に詰める。オールド・クロウを注ぎ入れ、同量のソーダを足す。マドラーもあったが、わざわざ使うのも面倒で、指で適当に混ぜ、ソファに再び腰を下ろす。
 2杯目を作ったところで、清瀬が出てきた。
 ……服のままの方がましだったかもしれない。
 真っ白なバスローブに包まれた清瀬を見てそう思った。
「バスローブってこんなに心地いいんだね」
 嬉しそうにそういう清瀬を見て、自分の中にある邪な気持ちに気付かされる。
「心地いい?」
「うんっ。すっごくフワフワ!」
 今日久々に見た、清瀬の満面の笑み。ふわっと漂う、いかにも風呂上りという香りにクラクラする。
「お前も飲む?」
 そんな自分をごまかすように清瀬にグラスを見せる。
「あっ、何飲んでるの?」
「クロウ」
「なんであるの?」
「……たぶん篠森さんがSkyscraperから用意させたんじゃないかな?」
「……そっかー。すごいね、篠森さん」
 自分の中に嫉妬心が芽生えた。
「……そうだな」
 言葉に含まれた微かな刺に清瀬が怪訝な顔をする。
「相良くん?」
「……クロウでいいか?」
 清瀬が悪いんじゃない。俺が勝手に嫉妬しただけだ。頷いたのを確認してもう一つグラスを手にした。
「ソーダ入れる?」
「うん」
 さすがに清瀬の分はマドラーを使いステアする。
「ありがとう」
 グラスを受け取り、清瀬が並んでソファに座った。
 向かい側に座ると思ったのに、同じソファに並んで座ってくれたことが単純に嬉しい。
 雷はちょうどこのあたりの上空に居座っているのか、窓の外では稲光と雷鳴がほぼ同時に派手な共演を繰り広げていた。
「雷、すごいね……」
「ああ。きれーだなーとかって思ってるんだろう?」
「うん。興奮する」
 清瀬の興奮と自分の興奮が別のベクトルを向いていることは分かっている。それでもこの状況に清瀬が何も感じていないことを改めて知らされる。
 俺はそういう対象じゃないから危機感すら持たれないのか?そんなことばかりを考えていると、清瀬が小さな声で話し始めた。
「私、どうしたらいいんだろう……」
 俺が自分本位な事を考えている間も、清瀬は不安を抱えていて。それは紺野のこともあるだろうし、今日と明日休むことにした仕事のこともあるだろうし、紺野と松田さんの関係もあるだろう。いつの間にか自分の住まいまで知られているというのは恐怖に違いない。
「とりあえず篠森さんがちょっと今確認していることとかあるから、それ次第だな。たぶん今日中に連絡あるだろうから、それまではあんまり考えすぎるな」
 清瀬の目にまた涙が浮かぶ。
「泣いてばっかりだな、今日は」
「……ごめんね」
「我慢する必要はない。でも、俺もいるし、篠森さんたちもいるし。そんな不安に思うなよ」
「ありがとう」
 そう言ってグラスの中身を干した。
「もう一杯飲むか?」
「うん」
 清瀬のグラスを取り上げ、二杯目を作る。清瀬は窓の外を眺めていた。
「……紺野さん、この雨の中まだ待ってたりするのかな……」
 清瀬から漏れた言葉に呆れた。こんなに嫌な思いをさせているあいつを心配するのか?
「お前なあ……」
「……だって」
「子供じゃないんだし。今日は仕事もあるんだろう?適当に切り上げてるだろうよ」
「そうだよね……」
 力ない笑みを浮かべた。そのまま何か考えているのか清瀬は無言でまた窓の外を眺めている。俺もそのままつられるように窓の外を眺めた。
 不意に右側に重さを感じた。
 清瀬が俺に寄りかかっている。
「清瀬……?」
 泣きつかれたのもあったのだろう、清瀬は眠っていた。俺に体を預けて。右肩に寄りかかる頭の重さがなんとも心地いい。
 起こすのもかわいそうな気がして、不安定な頭が落ちないよう肩を抱く。細い肩がたまらなく愛おしく、寄せられた頭にそっと口付けた。

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