「しのぐーっ、おかえり!」
 家の玄関を開けた途端に大きな声が響いた。
「……ただいま」
「もう、あんたって子はなんでそんなにそっけないのよ。久しぶりに会ったっていうのに」
 そう言って姉は化粧っけのない顔をほころばせ、わしわしっと俺の頭を撫でた。
「こっちに来てたんだ。直接篠森さんとこに行くのかと思ってた」
「あ、もう聞いてたの?」
「入学式で会ったから」
「あ、そっか。行く前にちょっと話あったからこっちに来たのよ」
 話……?
「先に手洗ってきなさい。コーヒー淹れておくから」
「ああ……」
 我が家は会話が多いほうだと思う。両親も姉も自分が考えていることや思っていることを率直に言葉にする。姉は8つ上で、そもそもの性分でもあるのだろ う、子供の頃から俺の世話をよく焼いていた。そのおかげでというか、そのせいでというか、俺は言葉にしなくても察してもらうことに慣れてしまった部分があ ると思う。
「凌、あんたブラックでいいのー?」
 おそらくキッチンから声を出してるだろうに、洗面所のドアを閉めていてもはっきり届く。それには答えず、手洗いを済ませてから洗面所を出た。
「返事なかったからブラックにしたけど。なにか入れるなら自分でやって」
 テーブルの上にマグカップが二つと皿が二つ並んでいる。
「ケーキ食べる?」
 それには無言で頷いた。HOTEL SYCAMOREの箱から小さなケーキを二つ取り出し、そのまま皿に乗せる。
「SYCAMOREのケーキ、すごくおいしいのよ」
「……知ってる。毎回食べてる」
「あら、可愛げのない反応」
「で、話って?」
 面白くなさそうな顔をしている姉に単刀直入に切り出した。
「早速本題に入るのはあんたらしいわね」
 姉にしては珍しく遠回りしようとしている。
「そんなに話しにくいことなの?」
「そうね……話しにくいわ」
 急かせば余計話しにくいだろう。伝えたいことを伝えようと思っている通りに言葉にするという作業は難しい。俺は先を促すわけでもなくコーヒーに口をつけた。
「篠森美桜ちゃんと蒼くんについて」
 会議で議題を提案するかのような口調だった。ただ、篠森美桜という名前に俺の中の何かが反応する。姉はその様子を確認した。
「もう会ったかしら?」
「いや……会ったというか。入試日に篠森美桜とは顔を合わせた。遅刻してきて具合悪そうだったから保健室に案内しただけだけど。篠森蒼の方は今日篠森さんと入学式に来ていたから、その時に挨拶しただけ」
「そう……どう思った?」
「……どうって」
 姉が言わんとしていることは分かるような気がしたが、意図が見えなかった。
「んー。どういう印象を持った?」
「……人形みたいって」
「……そっか。私はまだ会ったことはないんだけど、伊澄から聞いてたことがあって」
 そこで会話が途絶えた。
「慎……同級生は『温度がない』って言ってたな……」
「人形……温度がない……」
 そう呟いてからしばらく姉が無言になった。何か思いつめたような表情で、手元のコーヒーを睨んでいる。
「このことをあんたに言うのが正しいのかどうかわからないんだけど……」
 意を決したように口を開いた。
「あの子たちは伊澄たちの父親の弟の子。一番下の弟の子供なんだけど、母親は違うそうなの」
 そう話し始めた姉は悲痛な表情を浮かべていた。
「今の篠森の当主は伊澄たちの父親である雅史さん。雅史さんには弟が二人いて、章嗣さんと明慶さん。章嗣さんは雅史さんの秘書をしているわ。雅史さんにも 息子が二人いて、それぞれ伊澄と伊吹くんの秘書をしている。そして明慶さんは……仕事はかなりできるそうなんだけど、まあ女にはだらしない人みたい」
 まだ姉の話がどこへ向かうのか見当がつかなかった。腹違いだったり妾腹だったりというのは珍しい話でもない。
「美桜ちゃんと蒼くんの父親がその明慶さんね。美桜ちゃんのお母さんは美桜ちゃんの出産の時に亡くなったそうなの。でも、美桜ちゃんのことは人に任せて家 にはあまり帰らなかったみたい。周りも見かねて、家に帰るよう勧めたり、見合いを勧めたりしたらしいんだけど、美桜ちゃんが2年生の頃に突然結婚するって 連れてきた女の人が蒼くんのお母さん。その時既に蒼くんを妊娠していたらしいわ」
 ぽつぽつと言葉を選びながら姉が話し続ける。
「結婚してしばらくは家に落ち着いて美桜ちゃんも一緒に暮らし始めたんだけど……出産が近づくに連れまた女遊びが始まったらしくて、家に帰らなくなって、 そんな状態のまま蒼くんが生まれたんだって。その後蒼くんのお母さんは最初はちゃんと蒼くんと美桜ちゃんの世話をしていたらしんだけど……次第に明慶さん が家に帰らないのを子供たちのせいにし始めて。そう気持ちが変換されたのがなんでなのかはわからないんだけど」
 ここからが本題なのかもしれない、そう思った。
「ネグレストって知ってる?」
「……育児放棄?」
「そう。まだ乳離れもしていない蒼くんの面倒もみなくなったらしいわ。その面倒を美桜ちゃんが、まだ小学生なのにすべて見ていたそうなの。学校にもほとん ど通っていなかったみたい。伊澄や伊吹くんが時々様子を見に行っても、今は自分の実家にいるからとかで会わせてもらうこともできなかったそうなの。年の離 れた従兄妹が可愛かったし、心配だったみたいなんだけど、そのうち伊澄が留学して、伊吹くんも留学して。彼女たちのことを気にしてはいながら、どうするこ ともできなかったんだって」
 まだ本題には入っていない。これから何が出てくるのか。
「…… 育児放棄だけでなくて、虐待もあったみたい。まあ、育児放棄も虐待の一つだと思うけど……まだ小さい蒼くんを美桜ちゃんは一人で守っていたのだろうって。 それを伊澄と伊吹くんが知ったのは今年に入ってから。伊澄は多忙な生活に二人のことを気にかける余裕がなかったって言うし、伊吹くんも去年こっちに 戻ってきたばかりで、新しい自分の生活に忙殺されてって」
 あの篠森蒼の値踏みするような視線。あれは環境によって作られたものか……?二人のあの表情の無さもそこからきているのだろうか。
「虐待って……」
「うん。彼女たちがほとんど話さないから状況から察するしかなかったって伊澄は言ってるんだけど……おそらく日常的な暴力に、部屋に監禁されたいた様子も あったみたい。母親はかなり精神的にまいっていたみたいで……美桜ちゃんも蒼くんもお父さんによく似ているから、それが気に食わなかったのかな……どうい う状況でそこまで追い詰められたのかはわからないんだけど、二人を部屋に監禁している状態で、家に火をつけたの」
 言葉がでなかった。
「明慶さんは今は行方不明……お母さんは逮捕後入院。それが1月の話。二人はSYCAMOREのホテルに住まいを一旦移して、3月にここに越してきた。美 桜ちゃんは義務教育だし、成績にまったく問題がないからそのまま中学校は卒業。蒼くんは幼稚園にも通ってなかった。同じ学校に通うのも躊躇われたし、ここ から白銀台に通うのも遠いし。それで百合ヶ丘受けさせたみたい。ふたりともすることがなかったからずっと勉強していたんだって」
 姉が大きな溜息を吐いた。知らずと身体に力が入っていた俺もその緊張をとこうと息を吐く。
「美桜ちゃんは全く学校に行っていなかったわけではないみたいで、中学校に入ってからは年に何回かは登校していたんだけど、学校でもたぶん寂しい思いをしていただろうって……そりゃそうよね。そんな年に何回かしか来ない子と上手に付き合える子供のほうが少ないだろうし」
 すっかり冷めてしまったコーヒーを飲み干す。冷めたコーヒーはやけに苦かった。
 育児放棄、虐待……母親は自宅に放火して逮捕、入院、父親は失踪……
「弟が待っているので帰ります」と言って周りの話しかけを無視して帰宅したという彼女を責めることはできないだろう。篠森さんとの間にどんな信頼関係があるのかはしらないけど、やっぱり弟のことが心配だったのではないか……?
「美桜ちゃん、首席だったんだって?」
 突然の話の方向転換についていけない。
「そうだけど……」
「生徒会、入るかしら?」
「それは……なんとも言えないと思う。教室でちょっとあったみたいだし、既にコミュニケーションが取れない人って思われ始めている……」
 俺の言葉に姉が渋い顔をする。
「簡単なことではないと思うけど、蒼くんの方はまだ幼い分、新しい環境にも馴染むのも早いんじゃないかって。楽観視しすぎかもしれないけど。でも、美桜ちゃんは……やっぱり難しいと思うのよね。火事の後、病院で色々検査をしたらしいんだけど……」
「検査って……?」
「身体的な検査と精神的な検査」
 確かにどちらも必要な検査かもしれない。
「身体的な問題は鉄欠乏性貧血。これは食生活で改善が見込めるらしいけど。本人が話さないから医師の憶測なんだけど神経性の不眠もあるだろうって。それに伴う動悸・息切れ、食欲低下、頭痛もあるんじゃないかって言ってる。精神的な検査の方なんだけど……」
「欝とか……?」
「それが……心理テストとかしたみたいなんだけど、全くその傾向が見られないらしいの」
「それが問題になるの?」
 その傾向がないならいいのではないか……?
「不自然なほどにない。心理テストってかなりの量の設問があって、言葉を変えて同じ内容の質問が飛び飛びに沢山でてくるそうなんだけど、全くブレがなかったって」
 どう説明しようか思案しているのだろう、顎に手を当てて姉は黙り込んだ。
「日を変えても、同じ質問には全く同じ答えを選んでいた。人には感情がある。日によって気分が変わることもある。それは当たり前のことなんだけど、彼女は全くぶれない。1+1=2というような計算問題のように答えを違えることもなくて、まるで機械だって……」
「確かに俺も人形みたいって印象を持ったけど……感情が見えないとも思ったけど……でも、弟に対する感情とかは持ってるんじゃないの?」
「うん、でも弟にだけなんだと思う。伊澄も伊吹くんもそう言ってる。他のこと、こと自分に関しては無関心で、弟だけを見てるって」
「でも。入試日の時本当に微かだったけど笑ったよ」
「うそっ!?」
 姉が目を向いて食いついた。その勢いに少し気圧される。
「一度も笑ってないって、蒼くんにも笑顔を見せることはないって言ってたけど……あんた何したの?」
「いや……何って……『時間ないけど頑張って』って。『4月に待ってる』って」
 再び口に出して恥ずかしくなった。
「あんた、そんなこと言ったの?」
 姉の口調が少しからかいを含んだ。言わなければよかった……
「つい……一瞬驚いたような顔をしたけどすぐそれは消えて。『ありがとうございます』って、微かにだけど笑ったよ」
 もうしょうがないから白状した。
「あんたが人にそんなこと言うなんてね……驚いたわ」
 自分でも驚いたんだから、姉が驚くのも当然だろう。居心地の悪さをごまかすように席をたった。
「コーヒー、もう一杯飲む?」
「あ、お願い」
 姉からマグカップを受け取り、カウンターキッチンに回りこむ。姉がいれたコーヒーがまだ残っていたので、それを二つのマグカップに注ぎ入れた。
「お医者さんがね」
 マグカップを受け取ると姉が再び話し始めた。
「心理テストの結果は信用できないって。美桜ちゃん頭のいい子だから、結果に何も問題が出ないように答えてるんじゃないかって言ってるそうなの。これから 学校生活が始まって、今までと違う環境に身をおいて、初めて知る感情とかもあると思うのよ。その時に色んなことが噴出するかもしれない。それが怖いっ て……だから」
 真剣な目で俺を見つめた。
「何かの時は力になってあげてね」
 姉がなんでまだ会ったこともない篠森美桜にここまで肩入れするのかはわからなかったが、俺は頷いた。

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