テーブルの上には空になったマグカップが二つと手をつけられていないケーキが乗った皿が二つ。俺も姉も無言になってどれくらい時間が過ぎただろう。その静寂を打ち破ったのは姉の携帯電話に着信を告げる音だった。
「わかった。今から行くわ」
 一言で通話を終え、姉が俺に向かう。
「ケーキは帰ってから食べましょう。お隣に行くわよ」
 どこか挑むような口調だった。
 姉の少し後ろに立つ。目の前の扉の向こうに篠森美桜がいる。なんとも言えない緊張感が漂った。
「いらっしゃい」
 扉を開けたのは伊澄さんだった。この人の笑顔は人を和ませるような安心感がある。篠森さんもそうだ。篠森美桜もこんな笑顔を持っているのだろうか。
「凌くん、久しぶり。ゆっくりしてってね」
「はい、ありがとうございます」
 自分の家と同じ作りの玄関は、醸し出す雰囲気がまるで違っていた。飾り気もなく無機質な自分の住まいに比べて、篠森家にはあたたかい空気が漂っている。飾られている絵や華美ではない花。そういったものは篠森さんが用意したものなのだろうか。
「女の子が住む家だからって、伊吹がね」
 俺の視線に気がついたのか、伊澄さんが笑う。
 こういう心遣いというのは接客という仕事と向き合ってるからこそのものなのか、それともそもそも篠森さんが持つものなのか……どちらにしてもそれに篠森美桜が気がつくといいなと一人思った。
「美桜、蒼。こちらは僕の婚約者の夕利蓮花さん。そしてこちらが蓮花さんの弟の凌くん。凌くんは百合ヶ丘の高校二年生。美桜の先輩だよ」
 そう言われ、顔を上げた美桜は少し驚いたような表情を見せたが、すぐにその表情を消し小さく頭を下げた。
 俺の顔を覚えていたのだろうか……?
「蒼は今日凌と会ったよな」
 篠森さんの言葉に蒼が小さく頷くが、俺と姉の間を行き来した目は警戒心を顕にしている。居心地の悪い夕食になりそうだ……
「美桜ちゃん、蒼くん、初めまして。夕利蓮花です。来年には篠森蓮花になるわ。よろしくね」
 そう挨拶するとさっさと席についてしまった。どうしたもんかと思ったが、俺もその隣に腰をおろす。俺の正面に美桜がいる。テーブルには既に料理が並んでいた。
「蓮花さんと凌くんは何飲む?」
「何があるの?」
「んー、だいたいの物は。ワインもシャンパンもビールも」
 篠森さん、また店から持ってきたのだろうか……?
 何度かこうやって食事をしたことがあったが、そのたびに篠森さんは店から酒を持ってきていた。
「伊吹くん、またお店からもってきたんでしょう」
 姉も同じことを思ったのかそう篠森さんに笑いながら問う。
「もうすっかり分かられちゃってますね。まあ、この料理もあらかた店からですけど」
 悪びれずもせずに篠森さんも笑う。
「じゃあ、せっかくだからシャンパンにしようかな。凌は?」
「あ、俺は……水でいいです」
「炭酸入ってるのもあるよ」
「じゃあそれで」
「了解」
 前に篠森さんに教えられて発泡性のミネラルウォーターを飲んでから、かなり気に入っていた。甘みのないソーダが食事の時に調度良い。
 美桜も蒼もグラスの中身は水のようだった。姉と同じく伊澄さんも篠森さんもシャンパンにしたらしく、3つのフルートグラスにパイパーが注がれた。
「それでは。美桜、蒼、入学おめでとう」
 伊澄さんがグラスを上げる。それに倣って俺達も少しグラスを持ち上げた。美桜と蒼も躊躇いながらもそうする。
 食事はすべて銘々の皿に分けられている。おそらく、同じ皿をつつくわけにはいかないのだろう。
「美桜は1年生の首席だから、生徒会に入ることになると思うよ。凌くんも生徒会役員だから、わからないこととかあったら聞くといい。凌くん、よろしく頼むね」
「はい」
 美桜からの返事はない。生徒会の話は何か聞いているのだろうか。最初に少し驚いた表情を見せたものの、それ以降は一切顔から何かの感情は見えてこない。
「美桜ちゃん、首席入学だったの?すごいわね」
 姉は手放しで褒めたが、美桜は無表情に首を横に振っただけだった。食生活が改善されたからなのだろうか。入試日の時と比べると顔色はいいようだが、食事はなかなか進んでいない。それは蒼も同じだった。
「そういえば兄さんたち、式の日取りは決めたの?」
「ああ、3月の予定だ」
「年度末の忙しい時期にやる気ですか……」
 篠森さんが少し呆れたように笑う。
「迷ったんだけどね。年度始めから蓮花にもちょっと手伝ってもらうこととかあるから、その前のほうがいいと思って」
「美桜ちゃんと蒼くんもぜひ出席してね」
 姉が微笑みかけるが、二人からの反応はない。姉は気にする様子もなく伊澄さんと結婚式について話し続けている。夕利と篠森の結婚式ということもあり、招待客もかなりの人数になりそうだ。
「そうだ、あんた制服じゃなくてスーツで出席してよね」
「……なんで?」
「あんたのスーツ姿を見たいからよ」
「意味がわからない」
「百合ヶ丘の詰襟姿のほうが悪目立ちすると思うわよ」
 姉の言葉には一理あった。百合ヶ丘の詰襟は、濃紺にボタンではなくジップアップの為、一般的な学ランより目立ちやすい。第一、百合ヶ丘というだけで目立つことは前回の婚約パーティーで思い知った。
 夕利家と繋がりを持ちたいと思う人は多い。そういう者を親に持つ娘がひっきりなしに話しかけくるのを躱すのが面倒だったことを思い出す。
「そう思うでしょう」
 姉が得意げに笑った。
「美桜ちゃんと蒼くんも制服では出席しないほうがいいわよ」
 姉の言葉に美桜も蒼も言葉は発しない。
「美桜と蒼の服は俺が用意するよ。楽しみだ」
「いや、それは俺がやりたい」
 篠森兄弟が申し出るが、やはり何の反応も返ってはこない。ただ、若干の戸惑いの表情が見て取れた。
「そういえば、伊吹くんって夜仕事よね」
「あ、はい」
「美桜ちゃんたちの夜ご飯とかどうしてるの?」
「出掛けに作っておいたり、休みの日は俺がやってますけど、美桜もある程度はできますし」
「でも、食事はふたりだけでだったりするんでしょ?迷惑じゃなければうちで食べてよ。凌も一人で食べてるから、私いやなのよね」
 いやなのよねって……
「美弥子さんには私から連絡しておくから、凌そうしなさいね」
「……凌くん、お願いしてもいいかな?」
 黙ってやりとりを見ていた伊澄さんが口を挟んだ。この流れは、きっと姉と伊澄さんの間で打ち合わせ済みだったのだろう。
「俺は……かまいませんけど……」
 美桜たちがそれで本当にいいのだろうか?知らない人と食事とかってまだ無理なのではないか?
「美桜、蒼。せっかくだから甘えちゃおうか」
 そう篠森さんに問われ蒼はハッとしたように美桜を見つめた。その視線を受け止め、美桜は伊吹さんから順に見比べて、俺で視線を止めた。
「……好き嫌いある?」
 思わずそんなことを聞いていた。
「……ない、です」
 聞き逃しそうなほど小さな声だった。それでも返事をしてくれたことが無性に嬉しかった。
「蒼、明日は俺が迎えに行くからちゃんと待ってるんだぞ」
 蒼はただ無言で篠森さんを睨むように見ていた。
「しの……」
 呼びかけた途中で姉以外のここにいる全員が篠森であることに今更ながら気がついた。
「伊吹さん、明日以降も蒼くんを迎えに行くつもりですか?」
「……そこなんだよなー。まあしばらくはそのつもりでいる。近いから慣れれば一人でも平気だろうけど……」
「ちょっと先生に掛けあってみますね。図書室とかで待てるように。生徒会の活動が始まれば帰りが遅くなることもあるし」
 何か反応するかと思って、敢えて生徒会に入る前提で話してみた。瞳に浮かんだ色は……困惑?戸惑い?
 悪趣味だとは思ったが、微かに表す表情から感情を読み取る、この作業が面白くなってきていた。
「悪いね。でもそうしてもらうと助かるよ。俺も午前中から出なければならない日もあるし」
「いいのよ、伊吹くん。こんなことじゃないとこの子が役に立つことなんてないんだから」
 非常に不満がある言われようだったが、この場では口にしないでおく。伊吹さんの言葉に美桜の表情が歪んだからだった。すぐに下を向いてしまったが、あれは……泣きそう?どこに泣く要素があったかと会話を振り返ってみるが、さっぱり見当がつかない。
 そのまま美桜が顔をあげないまま食事は終わり、俺達も退席することにした。初対面の人間と長時間顔を突き合わせることに慣れてもいないだろう。きっと美桜も蒼も今日は入学式もあったことだしかなり疲れているのではないか。
「いやー、まいったまいった」
 家に入るなり姉がソファに寝転んだ。
「牛になるぞ。伊澄さんに写メしてやる」
「いやあね。伊澄ももう知ってるわよ。私のこんな姿なんて」
 あっけらかんと笑う。
「伊澄も伊吹くんもきれいな顔してるとは思ってたけど。美桜ちゃんと蒼くん。あれはすごいわねー」
 呆れてるのか感心してるのか、さっぱりわからない口調だ。
「うちとは真逆の方向よね。篠森はどっかで外国の血が入ってるのかしらね?」
「あんまりそういうこと軽々しく言わないほうがいいんじゃない?」
「わかってるわよっ。あんたしかいないから言ったんじゃない」
 まあそうだろう。喋ると失敗する自覚があるから外ではあまり口を開かず微笑むだけを心がけている姉の見かけに騙されている人は多い。俺は子供の頃に大和撫子なんて幻想だと覚った。
「私と凌はよく雛人形みたいって言われたけど、あれはフランス人形ね」
「……たしかに」
 白い肌に、波打つ柔らかそうな髪、はっきりとした目鼻立ち。あの顔に感情のこもった表情が宿ったら……ヤバイ。って、おい。何がヤバイんだよ。自分の考えてることに思わず自分で突っ込む。
「あ、そうだ。凌、明日美桜ちゃんたち迎えに行きなさいよ」
「なんで」
「自分たちからあの子たちが来るわけないでしょう」
 ……それもそうか。姉は一度言い出したらきかない。もし迎えに行かなかったことがどこかでばれたらそれは面倒なことになる。どっちみち迎えに行くしかなさそうだ。
「伊吹さん、何時頃仕事に出てるんだろう」
「マチマチじゃないの?ここ最近はあの二人が来たのもあって、かなり仕事時間減らしていたみたいだけど」
「まあ、明日から3日間は試験だけだから、俺達も昼頃には終わるし、伊吹さんも卒業生だからそのへんは知ってるか」
「そうねー。あ、司書ってまだ絢子さんなの?」
「そう」
「じゃ、別に大丈夫か。あの人、実は小学校の教員免許も持ってるのよね。ついでに蒼くんの勉強みさせたら?」
「あ、そうなの。明日話してくるよ」
「よろしく伝えておいて。なかなか会う機会なくて」
 そう言って立ち上がると、キッチンへ向かった。
「コーヒー、飲む?試験勉強、一応するんでしょ?」
「うん、一応」
「……嫌味な子」
 笑いながらコーヒーを淹れる用意をしているのを眺める。こういう家族との時間が美桜も蒼も今までなかったのだろうと思うと、なんだかやるせない気分になった。

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