コーヒーメーカーのスイッチをいれるだけの状態にしたら、食パンを2枚用意しトースターにセットする。焼き始めるのはまだ早い。
 冷蔵庫を覗いてちょっと迷ったが、卵を3個取り出して、ボウルにあけ、塩コショウを加えて軽くかき混ぜる。
 二つのフライパンを火にかけてから、美弥子さんが用意してくれていたポテトサラダを皿に盛る。温まったフライパンに薄く油を引きなじませてから、ベーコンを4枚。もうひとつのフライパンには溶きほぐした卵を流し入れる。
「おはよう。ごめん、寝坊しちゃった」
「おはよう」
 姉が朝に弱いのはいつものことだ。姉が泊まった日は必ず朝食の準備は自分がやることになる。毎朝自分の食事の用意は自分でしているから、ひとり分もふたり分も変わらない。
「トースター、3分でセットして。あとコーヒーも淹れるだけになってる」
「相変わらず手際のいいことで」
 姉の軽口は無視し、スクランブルエッグとベーコンを盛りつける。ああ、トマトもあったなと思い出し、プチトマトを2個ずつ添えた。
「おいしそう。いただきまーす」
 いつもは一人の食事もやはり誰かがいるというのはいいものかもしれない。今までそんなことを思ったことはなかった。美桜たちもそう思うようになればいいと思い至って、昨夜、美桜たちのこれまでを知らされてから自分の中で何かが少し変わったような気がした。
「片付けは私やっておくから。学校の準備しなさい」
「ああ、ありがとう」
 そうは言ったものの、片付けの時間も含めて動いていたから、学校へ行くにはまだちょっと早い。まあ、少し早めに行って復習でもしておけばいいか。
 玄関を出ると、ちょうど隣のドアも開く気配がした。思わず息を飲む。心臓が跳ね上がった気がした。ゆっくり振り返る。
「……おはよう」
 美桜と、その後ろに隠れるようにして蒼がいた。
「……おはようございます」
 躊躇いがちな朝の挨拶が互いに交わされる。蒼は無言で俺を睨んでいた。エレベーターを待つ間に若干気不味い雰囲気が漂う。目的地が同じだけに、お互い相手の様子を見ながら歩を進めた。
 学校までの距離が近くてよかった。でも、近いとは言っても10分くらいはかかる。ましてや蒼が一緒だから、普段より時間はかかりそうだ。
 じゃあ、と言い出すこともできずになんとなく一緒に歩いてはいるが、会話はない。妙に緊張している自分に少し腹がたった。
 Villa Sycamoreからだと百合ヶ丘学園の初等部の校門の方が高等部の校門より手前にある。初等部の校門の前で美桜と蒼が立ち止まった。ついつられて俺も立ち止まる。
「蒼、今日は伊吹さんが迎えに来てくれるって言ってたから、ちゃんと待ってるのよ。私は蒼より学校が終わるの遅いから、伊吹さんと一緒に帰って、待っててね」
 初めてこんなに長い言葉を発する美桜を見た。ちゃんとお姉ちゃんなんだな、と変に関心した。蒼は美桜に頷いた後、また俺を睨む。美桜と離れる不安、なのだろうか。
 蒼が振り返りながら校舎へと向かっていくのを見送り、また互いになんとも言えない空気を感じながら歩き始めた。
 早めに家を出たと思ったが、蒼の足に合わせ歩き、その蒼を見送ってからだとむしろ少し予定より遅く着くことになった。ちょうど多くの生徒が登校してくる時間にあたり、何人もの生徒に不躾な視線を投げかけられる。
 タイミング悪かったな……そう思ったが、もうしょうがない。遠目ににやついている慎の姿が見えた。百合ヶ丘学園の高等部は設計上の都合なのか、下駄箱が なく、教室内は土足で入るため、靴を履き替えたりすることはない。そのまま廊下を進み、1学年の教室がある2階まで共に登る。
「今日、帰りに司書に蒼のこと頼んでみる。図書室わかる?」
 うつむきつつ無言で首を振る美桜に、図書室の場所を説明しようかと思ったが、周囲の人の視線に面倒くさくなった。
「終わったら迎えに行くから教室で待ってて」
「……はい」
 上げた顔に浮かんだ表情は……やっぱり戸惑い、なのだろうか。
「じゃあ、帰りに」
「はい……」
 そこで別れ2学年の教室がある3階へと向かう。すぐその後を慎が追いかけてきた。
「しっのぐーっ!」
「……おはよう」
「おはよー」
 いつも以上ににこやかな顔が少し憎たらしい。
「朝から上機嫌だな。そんなに今日の試験余裕か」
「非道い。朝から珍しいもの見せたのはそっちなのに」
「俺は見世物じゃない」
「でも、今日はすっかり見世物になってたよ」
「…………」
 見世物、か。俺と一緒に登校して見世物になったのはむしろ美桜のほうか……?
「ま、凌がってよりは1年の首席ちゃんの方だと思うけどね」
「たまたま家を出るタイミングが同じだっただけだ」
「あれ?昨日挨拶してたお隣さんって、あの子の父兄なの?」
 慎は妙に記憶力とカンがいい時がある。
「そう」
「そっかー。でも、みんなはそれを知らないからね。やっぱり夕利家の人と一緒にいたら目立つじゃん。ましてやあの子首席だし、あの顔だし、あの雰囲気だし」
「あの雰囲気だしって……」
「んー。フランス人形?」
 こいつも姉と同じ感覚か。まあ、でもフランス人形っていうのは俺も否定はしないが。
「会長のことは待ちもしないのに、あの子と仲良く登校ですか」
「何が言いたい?」
「いや、べつにー」
 またにやついている慎を置いて行こうとしたら、ぐいっと袖をひっぱられた。
「ほら、俺のことだって面倒くさいと置いていこうとするのに」
 自分でも気づいていないわけがない。俺は美桜が気になっている。でも、それはあの話を聞いてしまったせいかもしれない。それでも、人が気になるということ自体、俺自身初めてのことで少し戸惑っている。
 戸惑うといえば……美桜が昨日から見せる戸惑うような表情。あれは何に対する戸惑いか。色々想像はしてみるものの、本人に聞いたわけでもないし、正解は分からない。いつか、分かるときは来るのだろうか。
「うるさい。もう開始まであまり時間ないぞ」
「あ、最初なんだっけ?」
「現国」
「それなら余裕だもん」
 確かに慎は文系教科の中でも現国は特に強い。普段の言葉遣いなんかからは想像し難い。
「そうだったな」
「ま、数学はどうなるかわからないけどねー」
「今のうちに一つでも公式覚えておけ」
 そう言い残し自分の席に着く。新学期明けの実力試験は、休み中の課題さえしっかりやっていれば満点を取るのもそれほど難しいものではないが、問題数が多いから気を抜くと時間不足になりやすい。
 教科書とノートを出し、軽く見直していると、間もなく担任教師がやってきた。試験中はホームルームもなく、さっさと試験が開始される。
 いつもの通り、試験問題に目を通してから着手する。試験はけっこう好きだ。自分にその科目で必要とされる知識などが身についたかのいい確認になる。静まり返った教室が心地いい。
 自然と問題を解くことに集中していった。
「あ」
 シャープペンが紙の上を走る音しかしていなかった教室の中、俺の声がやけに響いた。瞬間、教室中の目が俺を向いた。
「どうした?」
「……いや、すみません。なんでもないです」
 怪訝な顔をした担任教師はそれ以上問い詰めることはなかった。
 さっきまでは気になるのは美桜の境遇を聞いたからかもとか色々言い訳していた。そう、あれは言い訳だ。気になる。それは簡単で、単純な理由だった。
 これって、一目惚れ、なのか……?
 いや、今は試験に集中しよう。気を取り直し解答欄を埋めていく。少し時間に余裕を持って終わらせ、一通り見なおしてからシャープペンを机に置いた。
 終了の合図で一番後ろの席の人が解答用紙を集めていく。担任教師が教室をでていくと同時に慎が俺のもとに来た。
「なに、さっきの」
「……ちょっと思い出したことがあって」
「ふうん」
 意味ありげに笑う慎はなんとなくわかっているのかもしれない。
「お前、余裕だな。次数学だぞ」
 悔し紛れにそんなことを言うと、慎の顔つきが変わる。
「あ、聞いておこうと思ったんだ。課題でこれわかりにくくてさ」
 そう言って、課題の問題の一つを指す。
「ああ、これは……」
「そうか。じゃあ、これはこうして……」
 納得できたのか、ふんふん頷いて自分の席に戻っていった。 
 15分ずつの休憩をはさみ、60分の試験が1日に3科目ずつ実施される。3つ目が終わったらさっさと教室を出ることにしよう。慎に捕まると面倒そうだ。
 その予定通り、誰かに話しかけられる前に教室を出て2階の1年A組の教室へ向かった。
「あれ?凌先輩?」
 振り返ると、不思議そうな顔をした西条がいた。俺が直接呼び出すよりいいか、と思い西条に頼むことにする。
「美桜、篠森美桜呼んでくれる?」
「え?篠森さん、ですか……?」
「そう。用事あるから」
「あ、はい」
 生徒会の用事かとでも思ったか、特に疑問をもった様子もなく教室へ入っていった。程なく西条が出てくると、その後ろを少し離れて美桜が出てきた。
「ありがとう」
 西条にそう言ってから美桜の顔を見る。戸惑いというより、困っているような表情、か?
「凌先輩、相変わらず人気者ですね」
「なんのことだ?」
 俺の問いに言葉では答えずに西条は美桜を見やる。ああ、何か言われたか、聞かれたかしてたのだろうか。
「……気をつけるよ」
 昔の苦い思い出が蘇った。母親同士が仲良く、俺も仲がいいと思っていた女の子が一人いた。その子はある日突然、俺と一緒にいるといじめられるからもう仲 良くしないでと俺と話すこそすら拒んだ。いまだに同じ学校に通うが、それ以来言葉を交わしたことはない。俺の初恋はもしかしたら彼女だったかもしれない。
 そのことが俺の人に立ち入らない性格に拍車を掛けた部分はあると思う。
 やっと新たな生活を手に入れた美桜にそんな余計なことで煩わせたくはないが、いくら自分がそんなことを思ったところで、自分の意志とは関係がないところで事は起きる……
「行くぞ」
 それだけ言い、管理棟へ向かった。少し後ろを美桜は黙ってついてくる。入試の時と重なった。図書室は管理棟の2階にある。この1学年の教室がある本館の2階からはそう遠くない。
 図書室に入ると目当ての人はすぐに見つかった。
「絢子さん、ちょっといいですか?」
「あら、凌くん。なに?入れて欲しい本でもあった?」
「いや、そういうことじゃなくて、ちょっと個人的なお願いになるのですが……」
 そこまで言いかけたとき、図書室の入り口が乱暴に開かれた。
「美桜!!」
「……伊吹さん?」
 驚いて振り返ると、息を切らせ駆けこんできた伊吹さんの姿があった。美桜も驚いて伊吹さんを見つめている。
「美桜、蒼がいなくなった」
 美桜の息を飲む音が聞こえた。

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