「いなくなったって……?」
 伊吹さんの呼吸がまだ整わない。
「ちょっと迎えに行くのが遅れたんだけど……蒼は教室でちゃんと待ってたんだ。帰ろうかという時に電話が入って……仕事の電話だから待つように言って、ちょっと目を話した隙にいなくなってて」
「……一人で帰ったとか?」
 美桜は反応できないままでいたから俺が聞いてみる。
「いや、俺もそう思って、急いで家まで行ってみたけどいないんだ。一本道だから迷うようなこともないはずだし……」
「……こっちに来たのかも……学校いくのすごく不安がってて……」
 美桜の言葉に今朝の蒼の様子が思い出された。校門を過ぎてからも何度も振り返って美桜の姿を確認していた。
「とりあえず探そう。美桜、携帯持ってる?」
「あ、はい」
「番号教えて。俺が見つけたらすぐ連絡いれるから」
 まだ与えられたばかりなのだろう。慣れない手つきがもどかしくて携帯電話を取り返す。自分の携帯宛に電話をかけ、着信を確認してすぐに切る。
「こうやれば俺につながるから、先に見つけたら電話して」
「わかりました」
「初等部から抜ける中庭の方はわからないだろうから、俺は校門から初等部の方に向かってみる。美桜は高等部の本校舎を探してみて。伊吹さんは……もう一度家に向かう道へ向かってみてください」
「わかった、助かる」
「絢子さん、すみません。また改めます」
 絢子さんの返事を待たずに3人図書室から出た。
 きっと、蒼にとって美桜と離れる不安は大きかったはずだ。おそらくこっちに向かったのだろう。でも、今朝美桜は蒼にちゃんと言い聞かせてた。伊吹さんと帰って待つように、と。ただ幼い子供のことだ。言いつけを守れないこともあるかもしれない。
 まだ多くの生徒が残っている校舎の中を急いで校門へ向かう。初等部の校門の方へ、桜並木が咲き誇る外壁に沿って走った。初等部の下校時間はとうに過ぎているのだろう。すれ違うのは高等部と中等部の生徒ばかりだ。
 結局初等部の校門へ辿りつくまで、一人として初等部の児童はいなかった。可能性は低いとは思いつつ、初等部の校舎も確認してみるが、残っている児童は見当たらなかった。
 今度は初等部から中庭を抜け高等部の校舎へと向かってみる。むしろこの道のほうが遠回りになる上に、この行き方を知っているわけがないと思いつつも万が一ということもある。
 来たときと同じように、初等部の児童は一人も見かけないまま高等部の校舎まで来てしまった。まだ美桜からも伊吹さんからも連絡は来ない。見つかっていないのだろう。
 呼び出しかけるか……?そう思いながら高等部の校舎への入り口を通り抜けた時だった。管理棟へ向かおうとしていた俺の視界に何かが見えた。
「蒼っ!?」
 視界の隅に入ったのは、紛れもなく初等部の制服に身を包んだ蒼だった。
「凌先輩?」
「由貴……なんで蒼と?」
「いや、この子入り口でうろうろしてて。話しかけても何も答えないし。誰かの家族かと思って職員室へ連れていこうかと思ってたんですけど……」
「助かった」
 すぐに携帯から着信履歴を探し出す。1コールで相手が出た。
「美桜っ、蒼いた。今どこ?」
『本校舎の2階です』
「1階まで降りてきて。入り口」
『すぐ行きます』
 走り通しで息が落ち着かない。壁に寄り掛かると溜息が漏れた。すぐ近く側にいたのだろう、パタパタとこちらに走ってくる足音が聞こえた。
「蒼っ!!」
「みおちゃんっ」
 駆け寄ってきた美桜が跪いて蒼を抱きしめた。その隣で由貴が何が起きているか理解できないでいる。説明もしないままもう一度電話を掛ける。
「あ、伊吹さん。見つかりました。高等部の校舎へ来てます」
『……よかった。凌くん、ありがとう。俺も近くだからそっちすぐ行く』
「わかりました。待ってます」
「美桜、伊吹さんもすぐこっち来るって」
「……はい」
 美桜の顔色が悪い。走って貧血気味か……?
「お前、具合悪くないか?」
「……大丈夫です」
 このやりとりに、帰りがけの生徒たちが立ち止まってみている。由貴は相変わらず訳がわからない様子で俺と美桜を見比べていた。
「凌くん、ごめん。世話掛けたね」
 伊吹さんが走ってきた。
「美桜も心配掛けさせて悪かった」
 相当走ったのだろう、額に汗が浮いている。軽く深呼吸してから蒼に向き直った。
「蒼、待っててって言ったのに、どうして先に行っちゃったの?勝手にいなくなったら心配するだろう」
 責めるわけでもなく、なかば独り言のように伊吹さんが言った。
「……だって、火事って。あついって言ったから……みおちゃんがいないから……」
「火事……?」
 蒼はもう泣く寸前の顔だった。何かに思い当たったのか伊吹さんがハッとする。
「かじって……。蒼、俺が電話で話していたのが聞こえてたんだね。俺が言った『かじ』っていうのは、梶原っていう人の名前なんだよ。ごめんね、嫌なことを思い出させてしまったね……」
 伊吹さんの説明に俺もすぐに合点がいった。梶原という人の呼び名なのだろう「かじ」を蒼は「火事」と勘違いしたのだ。そばに美桜がいなくて不安になって探しに来たのか……
「蒼。大丈夫。火事じゃないの」
 蒼と目を合わせるように、美桜が蒼の顔に両手を当てる。
「私がいないときは伊吹さんの言う事を聞きなさいって言ったでしょう?今日みたいに勝手にいなくなったりしたら心配するわ。こうやって心配して伊吹さんも凌さんも蒼のことを探してくれた。もう勝手にいなくなったりしちゃダメよ。わかった?」
 静かに言い聞かされると、頷いた蒼の目から涙が落ちた。
「じゃあ、二人にごめんなさいとありがとう、言えるね?」
「……ごめんなさい……ありがとうございました……」
 最後は涙声になり、そのまま蒼は美桜に泣きすがった。
「伊吹さん、凌さん。本当にすみませんでした」
「美桜、ごめん。俺のせいだ。俺が紛らわしいこと口にしたから……」
 泣き声が落ち着いてきた蒼を抱き寄せたまま美桜が首を振った。
 美桜を真似て、蒼の目の高さに合わせてみる。
「なあ、蒼。今日の夜ご飯何か食べたい物ある?」
 俺から声を掛けられるなどと思ってもいなかったのか、蒼が目を見開いて振り返った。その隣で美桜も同じように驚いた表情を見せている。
「夜ご飯、何食べたい?」
「……オムライス」
 子どもらしいメニューが微笑ましい。
「じゃあ、今日の夜ご飯はオムライスにしような」
 蒼は頷いて、初めて笑顔を見せた。それを見てつられたのか美桜の顔にも微かに笑顔が浮かぶ。その様子に目を奪われたのは俺だけではなかったらしい。伊吹さんも驚くのを隠しもしなかった。
「よかったな、蒼」
 わしわしっと伊吹さんに頭を撫でられ、きまり悪そうに笑顔をしまう蒼は小学一年生らしいあどけない顔をしていた。
「ま、その前に昼飯だな。もう用意できているはずだから、帰るか」
「え?」
 立ち上がった俺を美桜の視線が追いかける。
「昨日姉さん言ってたろ。美弥子さんにお願いしておくからって。今日の昼のも用意してあるって」
「ごめん、凌くん。助かるよ。俺、ちょっともう行かなきゃまずい」
「あ、電話。呼び出しだったんですか?」
「そうなんだ。俺ここから直接行くから、あと頼むよ」
「わかりました」
 急ぎの用件だったんだろう、伊吹さんはそのまますぐに表へ出て行った。
 さて。この集まっている人達は……まあ、放っておいていいか。由貴は……
「由貴、ありがとうな。助かった」
「いや、それは全然構わないんですけど……」
「ユキ、さん?あの、ありがとうございました」
「えっと、さん付けはやめない?一応、僕同級生なんだけど……藤井由貴」
「あ、ごめんなさい。藤井くん……」
 美桜の反応に由貴が苦笑いしている。
「まあ、いいや。弟さん見つかってよかったね」
 小さく頷く美桜の表情がまた消えている。あれは蒼だけに向けられるものなのか……?
「じゃあ……」
 俺がそう言いかけたときに美桜が立ち上がり、よろめいた。条件反射で手を伸ばし腕をつかむ。その瞬間に美桜の身体が強ばった。
「……走り過ぎて貧血起こしたんだろ。大丈夫か?」
「……はい」
 瞬間的に強ばった身体には気づかない振りをして静かに手を離す。離れたことにほっとしたような顔をされ面白くないと思ったが、考えて見れば女子高育ちで父親との接点もあまりなかった美桜だ。怖がるのが当然なのかもしれない。
「じゃあ帰るか」
 今朝の登校時と同じように周りの視線を浴びながら校舎を後にした。そして今朝と同じ道を歩く。ただ、今朝のような気不味い雰囲気はいくらか薄らいでいるように思えた。
 時折舞う桜の花びらを数えながら歩く。その後ろを美桜と蒼がついてくる。なんかいいなと思った。
 Villa Sycamoreに着き、エレベーターに乗り込む。
「先に着替えてきたら?」
 俺の一言で美桜が小さく「あ」と声を出した。よくよく注意してみているとけっこう表情が変わる。その変化は大きなものではないが、あの入試の日に見た無表情さは感じられない。
「なに?」
「鍵……伊吹さんが、まだ作ってなくてって……」
「鍵、ないの?」
「はい……今日私の帰りと入れ違いに出るって言ってたから……」
「呼び出されて行ったしな……まあ、制服のままは居心地悪いだろうけど、そのままどうぞ」
「すみません」
「いや、別に」
 エレベーターが12階で止まる。Villa Sycamoreの12階は2世帯しかなく、エレベーターを挟んで篠森家と夕利家があるだけだ。右側ではなく左側に進むことに美桜も蒼も躊躇っているようだった。
「どうせ家に入れないんだから、こっち」
 玄関にカードキーを挿し込みながら振り返る。おずおずという感じで二人がこちらへ来る。玄関を開け、二人を先に促した。
「……おじゃま、します」
 美桜に背を押され蒼が入る。蒼は靴を脱いだ後ちゃんと自分でその靴を揃えた。蒼の躾は美桜がやったのだろうか……?美桜の躾は……?社交的ではないが社会性はあると思う。姉から聞いた話をすべて鵜呑みにするとしたら、彼女たちは何からこういった知識を得たのだろうか。
「間取り、対称なだけで同じだから」
 靴を脱いだ後、所在無げに立ち尽くしている二人を見て苦笑が漏れる。
「洗面所はそっち側。手洗い終わったら、ダイニングに行ってて。俺着替えてくる」
「はい」
 蒼の手をひいて、遠慮がちに洗面所の扉を開ける。ここに姉以外がいるとしたら両親のどちらかしかあり得ないことだったので、他人がいることに違和感を覚えたが不思議と嫌な感じはしなかった。
 美弥子さんが洗っておいてくれたデニムとTシャツに着替え、部屋を出る。ダイニングには座るでもなく、やはり所在無げに立っている美桜と蒼がいた。
 ダイニングテーブルの上に美弥子さんのメモが残されている。
『湘子さんのお使いで帰ります。お昼はサンドウィッチを用意しました。夕飯の用意、間に合わなくて申し訳ないですが、冷蔵庫にタラモサラダもあります 美弥子』
 タラモサラダ……昨日のポテトサラダに続いて、なんでこんなにじゃがいも?いただき物でもあったのか?
「ああ、ごめん。適当に座ってていいよ」
 まだ二人は立ったままだった。
「あの……、何か手伝うことは……」
「いいよ。サンドウィッチもう出来上がってる。蒼、サンドウィッチ好きか?」
 一体何人分を作ったんだと聞きたくなるような量のサンドウィッチを見せると、蒼が大きく頷いた。もう2時近い。腹も減っているだろう。
「よし。飲み物は……麦茶か水くらいしかないけど」
「むぎちゃがいい」
「こら。お願いしますでしょ」
「……むぎちゃ、おねがいします」
「はい。美桜は?」
「私も麦茶をお願いします」
「了解」
 なんだかこんなやりとりがくすぐったい。姉と俺の間ではあまりない雰囲気にこちらが照れくさくなる。
 お互い会話もないままサンドウィッチを黙々と食べた。蒼は泣きつかれたのもあったのだろう、お腹いっぱいになると席についたまま船を漕ぎ始めた。
「疲れたんだろうな……ソファに運ぶから」
 蒼を抱え上げる。初めて子供を抱き上げた。こんな心もとない身体で美桜だけが頼りだったんだなと思うと切なくなる。
 今日は暖かい。ブランケットまではいらないかと思い、バスタオルを掛けた。
「凌さん、いろいろとありがとうございます」
「さん、いらない。その呼ばれ方あんまり好きじゃないんだ」
「凌、くん?」
「凌でいいよ。身内みたいなもんになるんだし」
「しのぐ……」
「うん、そのほうがいい」
「そういうもの、ですか……?」
 ああ、と自然に笑みが漏れた。それにつられたのか、美桜に笑顔が広がった。

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