3月1日、卒業式を終え謝恩会も無事に終了。百合ヶ丘学園の謝恩会は2つある。一つは卒業生から先生への謝恩会。もう一つは在校生から卒業生への謝恩会。
 あの雪の入試日から一ヶ月。ふとした瞬間にあの入試の日に出会った少女の微かな笑顔を思い浮かぶことがある。
 結果、どうだったんだろうな……
 謝恩会の後片付けをしながらも、そんなことをぼんやり考えていた。
「凌、最近ぼーっとしてること多くない?」
「え?」
「ほら、また」
 不意に仁から声を掛けられ、ぼんやりしていたことに気がつく。
「なに?恋わずらい?」
「そんなんじゃないから」
 表情を変えずにそう言うと、仁が意味ありげに笑う。
「会長、それ済ませたらプロジェクターやってくださいね」
「えー、面倒くさい……」
「こういう無駄話してる間にそれさっさと終わらせてください」
 俺が会長と呼び敬語を使っているときは、必要以上に俺に構わないほうがいいと知っている仁は渋々ながらもその場を離れた。
 恋わずらいだと?
 そんなわけない。あんな一度会っただけの、名前も知らない女にどうやって恋患うというのだ。
 第一、恋など無縁だ。無駄だと思う。女は苦手だし。何かにつけ話しかけようとしてくる女の甲高い声が嫌いだ。
 そんなことをぐだぐだ考えているうちに滞り無く片付けも終わった。
「よし、じゃあ打ち上げ行くぞー」
「打ち上げ?」
 仁の声に振り返った。
「おう、打ち上げ。ほら入試の時の掛けあったじゃん」
「掛け……ああ、俺が時間まで持ち場離れないかってやつ?」
「そう。その掛け代が今日の打ち上げ。俺一人負けしたから、お前も半分持て」
「いやだ」
「そんなこと言うなよー。みんなでたまには遊ぼうぜー」
「遠慮する」
 どうせカラオケに行くとか飯食に行くとかそんなことだろう。面倒くさい。
「凌はやっぱり行かないかー」
 藤井先輩が全然残念じゃなさそうに言う。
「はい、行きません」
「ったく、凌はいつまでたっても付き合い悪いよな」
 慎がぼやいた。
「じゃ、お先します」
 片付けの終わった会場を後にした。
 あの雪の日が遠い過去のことのように、3月を迎えた日差しは春の気配を纏い始めた。枯葉一枚残っていなかった木にも小さな芽吹きが確認できる。
 自宅としているVilla Sycamoreへ続く道を吹き抜ける風も冬の名残はあるものの、明らかに季節が変わり始めていることを告げていた。
 エントランス脇に引越し業者のトラックが1台止まっていた。
 新たな入居者か?
「あれ?凌くん?」
 トラックの後ろから声を掛けられた。
「篠森さん……お引越しですか?」
 見知った顔が引越し業者と話ていることを意外に思った。引っ越すという話はまったく聞いていなかった。
「ああ、うちに二人増えるんだ」
「増える……?」
「うん。俺の従兄妹がね。春から百合ヶ丘の生徒になるから、よろしくね」
「そうなんですか」
「かなり人見知りすると思うから、そのうち紹介すると思うけど、いじめないでやってね」
「人聞きの悪いことを。いじめるほど俺は人に介入しませんよ」
 俺の言葉に篠森さんが乾いた笑いを漏らした。
 疲れてる……?
 まあ、引越しなんて疲れる作業か。
「あんまり人とコミュニケーションが上手にとれない子たちだからさ……」
 何故かあの子の顔が思い浮かんだ。
「まあ、お隣さんになるわけですし。後輩で親戚になるわけですから」
「うん、よろしくね」
 篠森さんのお兄さんは俺の姉の婚約者だ。来年には式を挙げる予定でいる。最初は篠森と夕利の政略結婚かと思ったが、意外なことに姉と篠森兄は恋愛結婚になるらしい。あの姉が恋愛結婚ねえと多少驚いた。
「たまに一緒に御飯でも食べてあげて」
「はあ……」
 篠森さんはHOTEL SYCAMOREのラウンジで働いている。基本的に夜はいないはずだ。篠森さんがいない限りその機会は少ないだろう。
 あまり他人と食事をともにするのは好みじゃない。社交辞令的な返事だけしておいた。
 12階でエレベーターを降り、自分の部屋へと向かう。篠森宅から、かすかに聞こえてきた音色に耳を澄ます。防音対策はされているはずでも廊下側の窓から漏れ聞こえるピアノの音。
 お隣りの新しい住人はピアノ弾きらしい。
 名前くらい聞いておけばよかったかとも思ったが、いくら縁戚関係になるとはいえ、義理の兄のイトコというのは遠い。しかもその義理の兄になる人はもう隣の住人ではない。学校でも俺が1年生と交流を持つとは考えにくい。結局、関わり合うことはほとんどないだろう。
 学年主席にでもなれば、生徒会で絡むことになるだろうが……
 百合ヶ丘学園の生徒会は学年首席はほぼ問答無用で入らされる。仁は2学年首席、俺が1学年首席。その他の役員は教師からの推薦者を生徒会の独断で決めている。
 いわゆる選挙はなく、生徒会に一度入れば、3年間だ。面倒だと最初は思ったが、何かイベントの時とかは予算案からすべて生徒会に一任されるため、社会勉強の一つとして引き受けることにした。
 俺の場合は、夕利一族というだけでも拒否権はなかったと思うが……
 百合ヶ丘学園は旧財閥の夕利家が社会貢献の一環として曽祖父の代に創設された学校だった。祖父の代で大学が設立され、名門と呼ばれるようになったらしい。
 幼稚舎に入学した頃寝物語にそんな話を聞かされた。周囲は夕利の後継者として俺に接するが、自分自身にそんな気負いはない。どちからと言えば、俺より仁のほうが人の上に立ってリーダーシップを発揮するタイプだろう。
「お夕飯は何がいいですか?」
 美弥子さんの声で我に返った。
「おまかせしますよ」
「たまにはリクエストしてくれた方が私も楽なんですけどね」
 週に4日通ってくれている有島美弥子は子供の頃から世話になっている。母からの絶大なる信頼があるため、姉がこの家を先月出ても、そのまま俺がここに住むことを、美弥子さんが通うことを条件に許してくれた。
 どちらにしても本宅は学校から遠い。通えないこともないが、毎日の通学に1時間半もの時間を掛けることは無駄だと思う。
「そういえば、篠森さんのとこお引越しだったみたいですね」
「ああ、なんか二人増えるって言ってましたよ」
「あらあら、そうなんですか。じゃあ先ほど見かけたぼうやが住むのかしら」
 美弥子さんの言葉に思わず首を捻る。
 ぼうや?
 百合ヶ丘に春から入学と言っていたが……一体いくつの子を俺によろしくと言ったんだ?
 結局、その後篠森さんが言っていたような食事を共にする機会もないまま1ヶ月が過ぎ、入学式の日を迎えた。
 晴れ渡った空はうっすらと春霞がかかり、柔らかな陽射しをつくりだしている。頬を撫でる風に微かに桜の香りが乗っていた。4月8日、桜は満開だ。舞う桜の花びらがあの入試日の風花を思い出させる。
 生徒会室で入学式の式次第を眺めていたが、一点から目が離せなくなっていた。
 篠森美桜……?
 新入生代表挨拶をする者の名。即ち首席入学者だろう。女子生徒が首席入学したのはここ最近なかったことらしい。だが目が止まっていたのは別の理由だった。
 篠森……特別珍しい苗字というわけではないが、周りに何人もいるような苗字でもない。そういえば増えるのは二人って言っていたな。ぼうやとこの子か?
 まあ、分かるのは時間の問題だろう。
「もう来てたんだ」
 藤井先輩が生徒会室へ入ってきた。
「することなかったんで」
「あ、式次第見てたのね。新入生代表、女の子なのね。さっき職員室でみかけたけど、キレイな子だったよー」
「あ、もう来てたんですか」
「うん。お人形さんみたいな子だった」
 なぜか藤井先輩がうっとりしている。人形みたい……あの子に俺もそういう印象を抱いたんだったな。
「ちわーっす」
 気の抜けた挨拶と共に慎も来た。
「あ、それ式次第?見せて」
 返事も待たずに慎が俺のてから式次第を奪う。
「おっ、新入生代表、女の子?」
「うん、キレイな子だよー」
 また嬉しそうに藤井先輩が言った。
「美人で賢いってか。藤井先輩の紅一点も終わりかな?」
「楽しみねー」
「実力試験結果って来週あたりに出るんでしたっけ?」
 百合ヶ丘学園は始業式の次の日から3日間実力テストが実施される。それは新入生も同じで、春休み中に課題が与えられ、それがそのまま試験範囲となる。
「私てっきり西条くんが首席になると思ってたなー」
 藤井先輩の言葉に俺も無言で頷く。
「誰ですか?その西条くんって」
「中等部の学年トップ。まあ私は1年生の頃しか知らないんだけどね。弟が仲いいから話はよく聞いてたけど、3年間ずっとトップだったみたいよ」
「あ、そうか。由貴も入学式か」
 俺の言葉ににっこり藤井先輩が微笑んだ。
「きっと生徒会への推薦もらうだろうから、よろしくね」
「はあ、姉弟揃って優秀ですか。うちの妹は逆立ちしてもこの学校は入れないだろうなあ」
「妹さん、いくつ?」
「中二になりました。公立校に通ってるんですけど、もうすっかりませちゃって。勉強より色気に目覚めて生意気なんですよ」
 慎がため息を吐いた。
「そんなこと言っても、可愛くてしかたないんじゃないの?」
「いや、可愛いよりも行く先が心配です。今年は百合祭に来るって今から張り切ってますよ……」
「あら、ぜひ招待してあげて」
「俺は構わないけど、きっと凌が大変だと思いますよ」
 意味ありげな言い方に慎を見ると、ニヤニヤとやな笑い方をしていた。
「なんで俺が大変になる?」
「たまたまお前が写りこんでた写真を見てからだからな。あいつが百合ヶ丘に興味持ち始めたのは」
「妹さんに教えておいたほうがいいんじゃない?こんなに無愛想な子だよって」
 藤井先輩までがニヤっと笑った。
「教えたら、そういうクールな人がいいって。きっと好きな人にだけ優しいんだよってもう妄想の世界ですよ」
「好きな人にだけ、ねえ。でもきっと凌はそういうタイプのような気が私もしてるけど」
「本当ですか?俺は好きな子にも凌は凌な気がするけど……」
「まだまだ甘いわね、澤田くん」
「ところで、仁は?」
 こんな無駄話に付き合ってあげる義理はない。そう思って話の矛先を変えてみた。
「会長のタイプはってこと?」
 慎を睨む。
「あ、打ち合わせって先に会場入りしてる」
「じゃあそろそろ行きますか」
 それに対する返事は待たずに生徒会室を出た。管理棟から講堂へつながる連絡通路へ向かう。2学年と3学年の始業式は午前中に終わったため、校舎内に生徒の姿はほとんどない。皆明日の実力テストに備えて早めに帰宅したのだろう。
 歩きながら外していた詰襟のホックをかける。4月にしては気温が上がっていた。連絡通路の窓も開け放たれている。迷い込んだ桜の花びらが無機質な床に彩りを添えている。
 東風吹かば、と頭に思い浮かんだが、あれは桜ではなく梅だったな、などとぼんやり歩いているうちに講堂へたどり着いた。

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